バウンダリーを大切にし、生活を支えるカウンセリングルーム

2025年8月12日

余剰について

仏教における「余剰」のアイデアについてきいたことからの連想。

執着しているもの=手放せないものは、その人が所有しているものとはいえない。そのため、余剰=手放すことができるものこそが真に所有しているものとなる。この余剰は、与える行為によって初めて顕在化し、施す側の真の所有を明らかにするものとなる。そのため、托鉢の例に見られるように、布施は与える側の心の豊かさを増す行為となる。

しかし、しばしば与える側が本来その人にとって不可欠なもの、つまり人格の中に含めなくていなくてはならない、時間や体力、精神的エネルギー、あるいは尊厳を削って提供してしまうことがある。こうしたものは、本来は執着すべきものなのであるが、それを明け渡してしまう(あるいは、明け渡さざるをえない)人がいるのである。

さらに厄介なのは、受け手がそうしたものまで余剰として受け取ってしまうことである。これによって、継続的な依頼や期待が生じてしまうことになる。このような場合、与える側と受け取る側の認識のずれが、搾取的な関係につながりやすくなってしまう。

これは自他境界の問題やケアの視点とつながるものであろうが、そのことについてはいずれどこかで。